何かを取り戻すまでの日記

生涯のうちにやりたいこと

20180518日記 #もしSNSが無かったら

5/18日、 スマホに表示された見慣れないアイコンは、
Twitterのダイレクトメッセージを受信したことを示していた。

目が覚めると昼過ぎだった。夜勤明けの生活リズムの改善がまだできていなかったけど、
今日をきっちり行動的に過ごせば、夜には眠気が来てくれるだろう。
睡眠についていろいろ調べてブログを読んで、行動習慣に関する謎の考え方が生まれつつあった。

受信したダイレクトメッセージは長文で、
ぼくが5年前に作成した記事についてだった。

大学の教室の一角で今ではなぜかいたのか分からない作成されたその記事は、
京都のとある祭で5年前に起きた不祥事に関する事実をまとめて考察したもので、
よく行ってもまとめ、悪く言えばゴシップそのものの記事だった。

つい最近作成されたであろうそのアカウントからのダイレクトメッセージは、
記事には事実でない部分があり、
昔の不祥事が悪し様に描写されているのは心が痛む、
削除してほしいという旨のものだった。

少し息苦しくなった。誰かに悪口を言われたり、すっかり忘れていた仕事の話をされた時の感覚。

そのまとめ記事と、ぼくのTwitterアカウントはリンクしていないが、
記事の作者として登録しているアカウント名はユニークのもので、twitterと同一のものだ。つまり作者名をGoogle検索したのだろう。
ぼくにダイレクトメッセージを送る方は、それなりに本気で作者の私とコンタクトをとろうとしたことになる。


SNSに複数の人格がいる人たちがいる。
〇〇垢、〇〇専用、サブ垢、裏垢。
そうでなくても、ひとサービスに一つの人格、というのは自然な人間の気持ちなのかもしれない。

僕は逆に、インターネットには一つの人格しかいないと思っている。
というよりも、不可分に思えてしまうのだ。

何にぶつかっても、
どれだけ所属するコミュニティが変わっても、
インプットがあってアウトプットがあるという「処理」は一つしかなくて、

あなたの脳みそが生み出すものは、どんだけネットワーク上の人格を細かく分けても、
重力のように引き寄せ合うものなのだ。

僕の名前はネットワーク上にユニークで、ほぼすべてのサービスでその名前が使われている。
どんなサービスを使っていても、ハサミを使う自分と、メモ帳を使う自分くらいの違いしか無い。


僕は「インターネットから完全に情報を消去するのは難しい」という標語に基づいて、
指摘者に「事実と異なる内容であるならばその開示を求める」旨を返信した。

きちんと帰ってきた理由をもとに、僕はゴシップ記事の内容をすべて削除して、
納得済みの削除である旨を記した一文だけを、その記事の本文に差し替えた。

その記事作成ツールには、記事へのコメントや、作者への連絡をとる手段が一切ない。
もし作者名とTwitterアカウントが同一で無かったら、不完全な情報を元に作成された記事は削除しようが無かったかもしれない。
少なくとも、今のような納得ずくの結果ではなかった。


つながらなかった繋がりもあれば、つながる繋がりもある。
見えなかった過ちもあれば、消えなかった過ちもある。

塞翁が馬のごとく、いい事の後に悪いことがきて、何もかもがプラマイゼロでも、漣は音を立ててくれた。

空も花も見ず、画面を見つめているだけなのに、世の中の空気が濃く、広く感じられるのはそのせいだろうか。
結局、僕らは水槽の中の脳みそなのかもしれない。