何かを取り戻すまでの日記

生涯のうちにやりたいこと

平成から令和へ

平成が終わり、令和の時代が始まろうとしています

別にただ生きているだけの日々、 社会人としてもがくだけの日々に代わりは無いでしょうが、

多少の感傷というか、年号が変わるというちょっとしたイベントに触発されて、
平成と令和の時代の話をしてみようと思いました。

いつものように書きなぐりの随想です。

平成

平成一ケダ台に生まれ、 物心ついたころには身の回りにはポケモン、ゲーム(テレビゲームは親が反対していたので携帯ゲームだけ)、少年ジャンプのマンガ、ゴールデンタイムのバラエティ、小さな学校の世界と、習い事以外のコミュニティはありませんでした。

なんとか20台の人間としては、ITとテレビメディアを抜きにして語る気ができません。 テレビとニコニコ動画が話題の中心、 Windows98からXP、Vista、7、10へと移り変わるOSと、デジタルメディアの隆盛、そしてクリエイターの増加、がありました。

PCの性能増加、回線の増強、フリーソフトやフリーサービスで、 目に見えるもの、見えないもの、耳に届くものはどんどんデジタル化して、そのたびにデジタル信号が流れるネットワークでできることが倍々に増えていきました。

成人を迎える前後には、人にはたくさんの趣味嗜好があり、それを通じて繋がりを得、表現する楽しみを知る事ができるのが当たり前の世界になっていました。

こんな趣味があるんだ、あんなことが起きたんだ、こんなことが問題になっているんだ、
テレビを見ているよりもネットを見ているほうが、圧倒的に深く、早く触れる事ができました。

昭和が人が手を動かし、足を動かして作られた時代なら、
平成は目と耳と口で作られた時代だと思います。

1次2次産業から、3次産業へのシフトと言ってもいいかもしれません。

人は移動しなくてもよく、汗を書かなくとも生み出せる価値を見つけました。

まだその可能性は無限にあります。

令和

平成に生まれた新しい価値や新しい生き方はどうなるでしょうか。
平成に生まれた人はまだ30歳、人生の半分も過ぎていないのです。

平成をはつらつと生きている人間をどう表現していいのか、未だに適切な表現が思いつきません。
昭和の清算も仕切っていないというのに、あまりに平成には新しいモノが生まれすぎました。

令和は、昭和平成と積み上げて来たものが崩れつつも、耐えた人間にのみ見える価値や世界が現れる年になる気がしています。

ITや洗練された文化が見せてくれる世界はありつつも、
私達は迫りくる圧倒的人手不足にさほど警戒感を持っていないように思います。

日本に生まれた人、日本に住んでいる人たちの営みのために、
私達が必要最低限の福祉、充足感を得られているような気はしているでしょうか。

もし私達がこの世に見出している価値にたいして、
その価値を創出するための人数がそもそも足りていないとしたら、
惨めな結末が頭をよぎります。

自分が実現できること、 自分の所属する社会が実現できることに対して、 今よりも具体的で、現実的になって、衣食住足りてこそ生み出せるものが、 令和を象徴する存在となっていくでしょう。

いつも思うのですが…

生まれる時代が遅くなるほど、その人にのしかかる、「先人の知恵」は多くなります。

これから生まれる子供には、何千年、西暦だけでもだいたい2020年…ぐらいの人の知恵が乗っかるのです。
どれだけ重たいことでしょうか。 彼らにしか実現できない幸せがありますように。

平成と令和

令和を迎えることができなかった友達がいます。

彼ら彼女らが生きていたらできていたであろうつながり、巡っていた営みもあります。

アイツらが羨むような楽しい令和にして、
天の国で再会したときにいろーんな話をしてやりたいと思います。