何かを取り戻すまでの日記

生涯のうちにやりたいこと

勝間和代さんの文章を起こす方法が分かりやすかった。

勝間和代さんが書いた文章の書き方がすごくシンプルで良い。

これは万人に通じる方法だ。

katsumakazuyo.hatenablog.com

勝間さんの言う通り、 書くツールや乗っけるサービスに拘りがちだけど、言葉を書く方法は最終的にはたった2つのプロセスだ。

  1. 無意識化での印象や観念、考えを言語化する
  2. 言語を素早く言葉にする

これだけ。

この考え方は書く場所を選ばない。 140字のツイートから、超長い論文まで。とにかく五感や無意識から起こったことを語彙を使って言語化し、言語を素早く記録すること。

特に2つ目が重要で、人間は思っていることが言葉になったとしても、それを10秒ぐらいで忘れてしまう。

別に科学的根拠はないけど、風呂場で「あ、これやらなきゃ」と思ったことが、風呂場を上がったら即忘れてしまったという体験はどなたもお持ちだろう。

結局人間は猿の進化系だから、言葉を使って生きるよりも、ジャングルで生き残る方が大事らしい。言葉の刺激よりも、目で見えるものや音で聞こえるもののほうが脳に残りやすいのだ。

思っていることや考えることは次から次に消え去る。それをどれだけ早く記録するか、が重要なのだ。

そういう意味で勝間さんはしつこく、書き起こしを行うインターフェイスの重要さを語っている。 親指シフトなんてなかなか知られていない超マニアック入力方式だ。だが早い。圧倒的に早いらしい。

俺も一度興味本位で手を出して、慣れずにドロップアウト。でもやっぱりこのブログを読んで始めようと思った。 それくらい、俺も勝間さんと同じく「早くタイピングできるかどうかで言葉の使う能力が変わる」と思う派だ。


ただ、この話を発展させるとしたら2点付け加えたい。

ブログはオチからかけ

そもそも、ブログを書きたがる奴は頭から言葉が溢れ出てしょうがないような人種である場合も多い。私もその一人だ。

文章を構成するロジックなんて、どんなシンプルな流れや起承転結でも考えてしまえばどんどん失われていってしまう。オチを書くことが重要だ。

ブログというのは物書きにしたら厄介な機能であり、ただただつらつらと書いてしまっては絶対に終わらない様になっている。140字の制限があるツイートが本当にありがたいと思う瞬間がたまにある。

ヅラヅラと書くならこのあとに書く編集を必ずすること。

編集をしたくないならオチを決めて書くことが大事だ。

編集は別の作業だ

これも長文派に向けたメッセージだ。

思っていることは常に理論立てて、起承転結が正しく順序立てて降りてきてくれるわけではない。

あっちに行ったりこっちに行ったり、3つ前に思ったことと今さっき思ったことが関連してきたり、面倒なことが多々あるだろう。

文章を書きながら考えているときでさえ、「あ、これ手前のセンテンスだ」とか「これはさっきの文章の前に置こう」とか考える事があるかもしれない。

そういうのは、書いたあとに全部やればいい。

  1. とにかく書く。思いついても脱線してもいい
  2. それを話の筋が立つように並び替え、口に出して読みやすいよう推敲する
  3. その上で更に文章の付け足しを行う

長文を書くならこれぐらいのプロセスがないとやっぱり読めない。

大事なのは、「書くこと」と「読みやすくする」は別の脳みそを使うということだ。

校正とか編集は後からやる、全く別の作業で、要は始めはヅラヅラと思ってることを書けばいい。

これを忘れてしまうと、書き手の脳みそと読み手の脳みそがごっちゃになってしまって、文章がいつまで立っても完結しない。

書き手になったなら、書きたいことは全部打ち込む。よそ見はしない。

究極的には、書き手としてどれだけ没入できたかが読みやすさにもつながる気がするが、これはただの精神論だ。


結局執筆の方法論になってしまった。語彙ってどうやって増やすんだろうな。

やはり活字をたくさん読むしかないんだろう。活字嫌いと活字好きの谷は深い。